ほしの墓標

脳のリソースがいっぱいになったらここに書き込んで整理します。今は日記を書いています。

幸せになりたい

幸せになりたい。

 

ずっと考えていることではあるが、今の自分が幸せであるかどうかなんて誰にも分らないだろう。

幸せを仮に「満たされた状態」「不安がない状態」だと仮定する。その状態を評価するのは自分自身なのか、他者なのか。

さらに、自分自身で評価する場合は主観評価となるため、過去と比較するのか、現状を評価するにとどめるのか。

幸せになりたいと漠然に思っていても、自分がなりたい幸せの形は曖昧すぎるから、どうすれば幸せになれるのか分からないままなのである。

そしてずっと足踏みを続けている。ここ数年、ずっと。

 

こうした漠然とした願望を持ち始めたのは、大学2年生の頃だったと思う。

大学受験をした方の多くがそうであるように、大学受験まではそれぞれの学校に入ること、いい成績をとって次の学校に行くことが一つの目標として掲げられていた。

小学生の頃から自分の成績は数字で表され、それが評定として受験に用いられる。勉強すればテストの点数が上がる。偏差値の高い学校に行けばまあなんとなく良いだろう、程度の認識でも数字が目に見えて上がればモチベーションにもなった。

比較的、恵まれた環境(比較すればキリがない)で育ったため、国公立大学を目指して勉強した結果、入学することもできた。大学の部活動でも仲間に恵まれた。そして自由を手にした。

大学生になってから、新たな楽しみを見つけて、それに打ち込むことができれば良かった。しかし、これまでの人生が受動的だったからか、自分では見つけられなかった。

傍から見れば、大学生活の中で部活動、ゼミ、バイト、長期休暇には旅行をするなど、平凡でありながら充実した大学生活だったのではないかと思う。

それでも「幸せになりたい」と思い始めてしまった。次の目標が分からず、どのように頑張ればいいかも提示されていないから。

そして幸か不幸か、私が入学した大学は旧帝大と呼ばれる比較的頭の良い人々が集う場所で、周囲の人間はやりたいことや得意なことが明確だった。(気がする)

その中で、受験をしたら入学できてしまっただけの私など取るに足らない有象無象のうちの一人だった。

どうすればやりたいことが見つかるのか、どうすれば得意なことが分かるのか、手探りで探してみたがよく分からないまま卒業し、就職した。

あと1か月で、就職してから1年が経とうとしている。

未だに「幸せになりたい」という思いは消えないし、どうすれば良いのかも分からないまま日々をただ生きている。

私がなりたかった大人は、こんな無為に生きている大人じゃなかった。

難しいな。

 

とりあえず、どうすれば良いのか何も分からない状態であることを明らかにしておきたくて、人に見せる形でこの文章を書いた。

正直、こんなことを考えている20代は腐るほどいて、そしてほとんどの人がよく分からないまま死んでいくのだろう。

それもいいけど、どうせネットが発達しているなら一人の人間の墓標としてはてなブログを使って記録してみてもいいんじゃないかと思ってブログにした。

ツイッターは大好きだけど、墓標になるには軽すぎる。ここを墓場にしてみよう。

 

おわり