ほしの墓標

脳のリソースがいっぱいになったらここに書き込んで整理します。今は日記を書いています。

人の優しさ

 

 今日は他人にとってあまり良くないニュースを知らせる仕事をした。

 

 人間はみんな、良くないニュースを聞くことで気分が悪くなると思う。もしくは悲しくなったりつらくなったりして、それを聞いたこと自体を後悔するかもしれない。もし新しいニュースを聞いた時に気分が良くなるなら、内容はどうであれそれは良いニュースだ。

 

 私は仕事の中で良いニュースを知らせることもあれば、良くないニュースを知らせることもある。そして今日は良くないニュースを知らせる日だった。

 

 良くないニュースを伝えた時、その人はまず確認する。次に否定、というか現実逃避をする。他の人の判断を仰いだり、専門家から見れば無茶な提案を新しくしてみたり、とにかく納得のいくまで質問する。そしてどうしようもないと分かると落ち込んで、受け止める準備をする。ここで受け止めきれないと、別の症状として身体に出てくる。

 今回の人は一時的に受け止めきれなくて会話が成立しない時間があったけれど、最後には受け止めて現状をしっかり理解していた。

 

 この一連の反応は、キューブラー・ロスが提唱した「死の受容過程」に似ている。順番に、①否認、②怒り、③取り引き、④抑うつ、⑤受容の5段階を経て人は死を受け入れるというものだ。

 

 この5段階目の"受容"は他人が理解できるものなのだろうか。

 

 今日の仕事相手は、一見すると良くないニュースを受け入れたかもしれないが、受け入れたくないという感情を隠しただけかもしれない。

その可能性は高い。なにしろ良くないニュースを告げる側は告げるしかないし、受け取る側は受け取るしかない。その瞬間は両者共に選択肢がない。仕事であるならば尚更、昨今の人権を尊重する社会の中でなら殊更だ。

 

 今日の仕事を通じて、人が感情を隠すことは周りの人を守ることなんだなと感じたけれど、結局それに助けられているのは私自身なのだと痛感した。隠した感情を掬ってあげられない予定調和の人間は、その隠されたままの感情を見ないふりをして見過ごすしかないのだ。

 良くないニュースを告げて暴れられたら厄介者扱い、受け入れられたら良い人扱いをしてしまう自分が嫌だ。

 納得させるために様々な理由を最もらしく(正しいことしか言ってはいないが)並べる人間で申し訳ない。

 人と人とが生きるには摩擦は少ない方がいい。

 

 対人関係というのはとても難しいことなのだと感じた。